「だからそうなのだとは知っているが」


 信じられない、という顔をして信彦が目の前にいた。
「お前、バカだろ」
 そんな言葉に反応している時間はない。少々乱雑にドライヤーをかけ、最低限のメイクをすべく鏡とにらめっこをする。まるで般若みたいな顔がそこには映っていた。  まぁそう言いたくなる気持ちも分からなくはない。週末だからと私の部屋に泊まり、明日は遅めに起きて買い物にでも行こうか、と話していたわけだったのだが、バイト先からの電話で叩き起こされたのが二時間前。夜更かしのせいで重たいまぶたをこすりながら人手が足りないから入ってくれ、と言う店長に分かりましたと告げ、一緒に起きてしまった信彦に謝り倒してシャワーへと向かったのが一時間半前。で、「つい」「うっかり」長風呂をしてしまった私が焦りながら出てきて、今に至る。
「…朝飯は」
「いい。勝手に漁っていいから」
 合鍵を持っているのだから、戸締まりさえしてあればそれすらも好きにしていいよと私は言葉を継いだ。ぞんざいな言動は慌てているからだろう。  支度は十五分で終わった。電車の時間まではまだ間がある。言われた時間には入れそうだ。そう思って、ようやく息をついた。そうしてからちらり、と右斜め前方、つまりテーブルに向かってコーヒーを飲んでいる信彦を見やる。目と目がすぐに合って、信彦が息を吐いた。諦めだの呆れだのが混じった顔をしてずいっと出されたのは、湯気を立てる紅茶が入った、私のマグカップだった。
「せめてこの位飲んでいけよ。パンも食うか?」
 見ればテーブルの上にはトーストとマーマレードが揃っていた。いつの間に焼いたんだろう。
「…ありがと。じゃ、半分だけ」
 大したメイクもしてないが、一応気を遣ってパンを口に運ぶ。さくさくと音を立てるのを聞いて、何だかようやく人間らしくなった気がした。
「ごちそうさま。もう行かなきゃ」
 濃い紅茶を飲み干して立ち上がる。鞄を手にとって、もう一度鏡を気にして、靴をつっかける。あとはドアを開いて、歩き出せばいい。
「香菜」
 呼び止められたので、靴をつっかけるのを中断して振り向く。信彦が三歩後ろに立っていた。
「なあに?」
 信彦は何か言いたそうに唇をもぞもぞさせて、でも結局その「何か」を飲み込んでこう言った。
「…いや、片付けはしておくから。行ってらっしゃい」
「ん。行ってきます」
 気にはなったが聞くべきでない気がした。どのみちそんなに時間もなかったので、私は予定通り靴をつっかけ、ドアを開いて、歩き出した。


 少しだけ重い音を立てて鍵は無事に回った。
「ただいま」
 例え誰もいなくとも、「行ってきます」とは言わなくとも、こう言ってしまうのは大抵の人にあることなんじゃないだろうか、と思う。もっとも、今回においてはそれは当てはまらず、私はそれを玄関に佇む見慣れた靴で気付いた。
「おかえり」
 部屋の奥から声が返ってきた。この部屋はワンルームだけど、玄関からはテーブルのある場所は見えない。つまり、そこにいるということだった。それは不思議な事ではない。合鍵を持っているのだから。でも、理由は?と考えると、ちょっと分からなかった。
 だから素直に聞いてみた。
「ただいまところでどうしているの」
「いちゃ悪いか?」
 普通に返された。いやそりゃいちゃ悪いわけでもないけど、ちょっと驚いたよ、と肩をすくめてみた。
「なぁ」
 上着をハンガーに掛けようとして、問いかけられて振り返った。ちょっと小首も傾げてみる。次の言葉を待つ。沈黙。出がけのやりとりを思い出す。今が聞くべき時なんだろうか。むしろ聞かれる時か。
「お前って、全部中途半端なのな。今朝のあれだって、分かってやってるんだろ?」
 息が詰まった。
「え、何、急に、」
「切羽詰まった状況にわざとしてるんだろ」
 その表現は正しくはないけれど。たぶん、そう言っても間違いではなかった。何かしなければいけない事がある時。分かっていても、頭の中でそれを放置してしまう癖。夏休みの宿題を最後まで手を着けないような。覚えているはずなのに、まるでそれが透明になってしまったように、なかったことにしてしまうのだ。逃避を正当化するように、自己防衛が働くのが更に手に負えない。
 急に不快な浮遊感に襲われる。ビルの屋上から地面を見下ろした時のあれが。首の後ろから背中にかけてグラフを転げ落ちるように芯が冷えていく。いつの間にか荒くなっていた呼吸を穏やかにしようと深く息を吸って、吐く。とうとう言われてしまった。途端に今度は体中が熱くなる。まとまらない考えばかりがぐるぐるぐるぐる回り始める。
「ごめん」
「別に咎める訳じゃないけどさ」
 どう言葉を続ければいいのか分からなくなって、俯いたまま黙り込んだ。浮かんでは漂ってでも言葉にはならない。違和感に気付いて右手を見ると震えていた。もう寒くもないのに。左手に掴んだ服は皺だらけだった。
 こうでありたくない、ああありたいという思いはいつもあるはずなのに、寝て起きてコピーされたそれはどこかが欠けていく。私はそれをぼんやりと見送ってしまって、取り返しがつかなくなるまでそうしている。感情を含めた自分自身を認識しようとすると、いつだってそれは自分の手を離れて、本当でなくなってしまう気がして、恐くてそれ以上ができない。自分のする客観的判断はどこまでも自分の中では主観の一部だから、分析ができなくて、線引きができなくて、でも不都合は生まれて、だから気付かないふりをし始めたのかもしれない。いつしかそれが癖になって、本当も嘘もなくなってしまったように思えた。そんな考えも浮かんだ瞬間に薄っぺらくなって、それをまた外から嘲って、またそれも嘘くさくなって、それを遠くから呆けて見つめている自分がいて、でもやっぱりそれも嘘くさく見えて、どうしようもない人間だと泣きたくなった。
 それすらも、


[幕]




−−−−−−
嫌な人間ですね。