「髪を切る日」


 しゃきしゃきと散髪の真似をする。胸の辺りで真横に構えて、ハサミを動かす。しゃきしゃきと澄んだ音を立てて空気が切り裂かれていく。すぐに、いつもと変わらない空間に戻ってしまうけど。今度は縦に近い斜めにして、刃先でつまむようにして小刻みに動かす。しゃしゃ、しゃとさっきより短い音が響く。何もない空間を空いている手でふわふわと撫でてみる。つまんでみる。
「こら、勝手にいじるなよ」
 背後から声がかかる。ハサミは鋭く研がれていて、うっかり刃先を押しつけたらそのまま吸い込まれてしまいそうに思えて、だからびっくりした拍子にうっかりが起こらないようにぎゅっと握った。 ハサミを胸に抱えて振り返る。私の頭ひとつ分だけ背の高い祐人が腰に手を当てて立っていた。ここは祐人の家が経営する美容室で、さっきまで私と背中合わせでごそごそやっていて、その音がなくなったということは、準備ができたということで、それはすなわち、
「いじったら手垢がつくだろ? 毎日ちゃんと磨いてるんだからな」
 そう言いながら私からハサミを取り上げて布で磨いて、それから、「では、準備ができましたのでお座り下さい、お姫様」
 私を椅子までエスコートした。三歩の間だけ。呼吸ひとつ分。ぽすんと間抜けな音がした。そのままぐるんと椅子が半回転して、さっきと比にならないくらいの音がして、視界がぐうんと持ち上がる。ちょうど祐人の肩に頭のてっぺんが来るくらい。それからタオルが首と襟の間にえいえいと押し込まれ、オレンジのひざ掛けが乗せられて、銀色のクロスがかけられる。少し窮屈になって、大げさに息をしてみた。前を向く。セミロングの栗色をした髪の私が座っていた。私にとっては見慣れた姿だけど、祐人には少し違って見えるのだろうか。私から見える祐人がそうであるように。
「それで、今日はどうしましょうか?」
「おまかせで。私目閉じてるから」
 短く答えると予想通り、すぐに「おいおい」と返ってきた。
「だっていつかは言われるでしょう。明日、は美容師として初めての仕事だからってきちんと予約してくれたけど」無意識を装ってつけたアクセントに祐人は気づいてくれただろうか。
「最後の難関だな…。わかりました、お姫様」
 肩をすくめながらウインクしてくるところが祐人らしい。私は静かに目を閉じた。髪の毛が梳かされていく。クリップ(ダッカール、というのだと教えてもらった)でひょいひょいと髪が頭上にまとめられていく。ときどき引っかかっているようにも思えるが、まあ許容範囲内だろう。首がスースーする。ダッカールのひとつが外されて、改めて髪が梳かされて、ハサミが慎重に当てられる。じょきん、と音がした。空を切るのではない、髪の毛が切られる音。毛先がどこにも当たらないのでどのくらい短くなったのか、よくわからない。テンポを変えながら、ダッカールを外して戻して、を繰り返して、ハサミが奏でる音楽は続く。空調の効いた部屋で目を閉じて、一定のリズム。眠気が襲ってこないわけもないが、ちょうどいいタイミングでうなじを整えられ、腰の辺りがむずむずして一気に目が覚めた。私は何かと過剰なアクションを取ってしまうと自他共に認識しているので、つとめて無表情、ノーリアクションを貫く。ハサミの音に、だから声は混じらない。
「なあ、本当に」
 祐人が私の前に回り込んで前髪に取りかかったとき、初めてそれは破られた。こくりとつばを飲み込んで手を止めたのは、無意識を装ったのだろうか。私のように。
「見送りに行かなくていいのか、明日。母さんが喋ったらしくて、予約の時間、ずらしてもいいって言ってもらったんだぜ」
 つとめて静かに、静かに私は息を吐く。
 明日祐人が初めての仕事をしている時間に、私はここを離れる。高校のときに出会って、私は短大、祐人は専門学校に行って、同じ街で三年、一緒にいることを選び続けた。長いのか短いのか人と比べるものでもないと思うから、よくわからない。
「いいの」
 なるべく表情を出さないように、でもできるだけ優しく、
「じゃないと泣いちゃう、って言うつもりはないけど」
 本当はどっちにしても泣いてしまうだろうけど、きっとその方がいいと思った。この通過儀礼において、私はそうしたいと思ったから。だから、これは私のエゴだ。目を閉じているから、祐人の表情はわからない。想像してみようとしたけれど、どうしてか寂しそうな顔しか思い浮かばない。私がそう思っているからだろうか。
「そうか」
 ため息ともとれる、小さく吐かれた息の後に短く返ってきた声に含まれた感情はうまく読み取れなかった。ハサミは再び動き出して、また調べを奏で始めた。


「終わったぞ」
 落ちた髪を払う音とともにそう言われて、私は静かに目を開ける。大きな窓から差し込む午後の日差しが少し眩しい。鏡の中にいる私は、目を閉じる前とそんなに変わっていなかった。毛先が軽くなっているが、長さに大した違いはない。
「もっと色々いじってもよかったのに」
 鏡越しにそう言えば、「だって」と呟きがこぼれてくる。
「少しでも長く記憶に留めておきたいから、な」
 肩をすくめながらウインクされる。既視感。じゃなくて、既視。いかにも祐人らしい答えに、初めて声を立てて笑う。それから私はシャンプー台に移動させられ、大量のシャンプーの泡で遊ばれた。しっかりトリートメントまでしてもらって、念入りにブローをかけられる。梳かされるのが気持ちよくて、ついうっとりしてしまった。
立ち上がって、毛を払われる。執拗に余計にされたので、つい足を踏んでしまった。ヒールの低いパンプスで残念だった。


 かちゃりかちゃりと祐人は片付けをしている。春の日差しは何も言葉を交わさなくても気まずくならない気がするから、私はそれに甘えた。ふと、ワゴンの中にまだ使っていないダッカールに気づく。
「ねえ、このダッカール、ひとつくれない?」
 こっちを向いた祐人が私の手の中を見て、顔を見て、を二回した。
「…甘えるの苦手だよなあ、相変わらず」
 私の手の中からそれを取ると、祐人はさっきと同じようにあっという間に私の髪をまとめ上げてしまった。魔法みたいだと、思った。
しばらく経って、祐人はおしまいだと手を叩いた。まだ片付いてないようにも見えるが、きっと後でまたやるのだろう。自分についた毛を軽く払って、祐人は私の方を向いた。
「さて、ひと段落したから何か軽く食べに行くか」
「じゃあ駅ビルのケーキ!」
 くるりと回ってみせると、「割り勘だからな」と釘を刺された。けちー、と笑うと手をつないでくれて、それが何故か琴線に触れて涙が出そうになって、下を向いてぐっとこらえた。ドアを開けるとベルがからんからんと高い音を立てて、やけに響いて聞こえた。


 私の頭上高くには柔らかな光を放つ太陽があって、左手を辿っていくと祐人がいて、頭には青いダッカールがある。
 たぶん明日もそれをつけて、私はここを出ていくんだろう。

[幕]




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槇原敬之の「髪を切る日」とGARNET CROWの「千以上の言葉を並べても…」
がテーマソング。
書き足そうと思っていたのですが、何を書こうとしたのか思い出せず…
髪をいじってもらうのって、結構好きだったりします。