「そんな放課後」
目を閉じて、昨日のことを思い出す。
教室。開け放した窓。はためくカーテン。流れる雲。陸上部の声。風の音。気だるい空気。君の声。
セピア色で塗り潰されて。
「おはよう」
声をかけられて振り向いた皆の顔が呆けたように固まる。私はそれを予想していたから、何事もなかったかのように自分の席に着いた。
「おはよう」
「お…はよ。どうしたの」
前の席の友人にもう一度声をかければ、話が分からないと言うかのように、私の頭を指す。
無理もない。
「昨日、何となく、ね」
そう言って髪をなぞる。昨日まで肩胛骨の辺りまであったそれは、耳たぶの辺りで指先を自由にした。
「何かあったの?」
問いかける彼女の行動は統計的に見て正しい。恋に破れただの、願掛けだの、とにかく何かあったとき、人は髪を切ることが多いという。
何もなかった訳じゃないけれど。
「だから、何となくだってば。重たくて重たくて」
「でも昨日、何にも言ってなかったじゃない」
「何かをするのに、理由が必ず必要なの?それより、一限の化学って実験室だったっけ」
まだ納得がいってない顔をする友人をあしらいながら、私はいつも通りの一日を始めた。
微かな動きに、揺れる毛先が頬をくすぐった。
昼休み。出会う知り合い一人一人にそれぞれの反応をされ、理由を聞かれて、何でもないと答える行為は、もはや単純作業にも似てきて、覚悟をしていたとは言え、さすがに少々疲れた。
一人席に着いて目を閉じる。思い浮かぶ、昨日の放課後。一つ一つの出来事は何故かセピア色に染められて、だからこそいっそう鮮やかに刻まれる。
軽く息をついて、ルーズリーフを取り出す。ボールペンで短い文を二、三書き終えると、丁寧に四つにたたんで、それから席を立ち上がって、教室をしばらく後にした。
昨日とそんなに変わらない、気だるい風は、昨日と同じようにカーテンと戯れている。
人気のない、廊下の突き当たりの空き教室。あと三十分もすれば、合唱部がパート練習をしにやってくる。窓枠にもたれれば、緩やかな風を受けて、髪が、ブラウスが、無邪気になびく。
目を閉じる。思い浮かぶ、昨日のこと。ここであったこと。不完全に断片化していくそれがほぐれて勝手に再構築されていく様を楽しんでいた。
ガタン、とドアが音を立てたので、目を開けた。
敷居を挟んで廊下側で、待ち合わせの相手が立っていた。ほんの少し上下している肩は、急いできた証だろうか。そう思うと、何だか嬉しくなって、口角をほんの少し持ち上げた。
そのままほんの少しだけ時計の針が進む。相手は他の人と同じように少し呆けたように立ち尽くしているように見えた。それとも、ただ息を整えているだけなのだろうか。どちらにせよ、第一声は向こうからと私の中で勝手に協定が結ばれていたので、そのまま様子をうかがう。
「今日も呼び出したと思ったら、それを見せたかった訳?」
呆れが滲んだ声で問いかけられる。
「うん。昨日、あれから、切ってきた」
もったいぶるように毛先をいじる。ふわりふわりと風が邪魔をする。
一歩一歩、床を踏む音が近づいてきて、私の前で止まった。五メートルから、三十センチ。
「そんなことを誰かが言っていたけど、本当に切ったんだ。ちょっと、もったいなかったかも」
髪に手が触れる。ゼロ。
「だって、キミに好かれたかったから」
昨日の言葉。髪が短い子が好きだからと言ったから、だから。単純だと一笑に付されても、構わないと思ってしまうほど、憧れて、近づいて、やっとこんなことを言える距離まで来れたから。
止める気はもう、とっくにないんだよ。
挑発するように口角を上げたまま、見つめる。分が悪いなんて初めから分かってる。それでも、下手に出る気はない。弱気になったら、きっと逃げられてしまうから。
「…本当に、早苗には」
かなわないよ。
その一言だけで、鼓動が三倍に跳ね上がる。顔に出ていないように願いながら、努めて冷静に返す。
「それは、イエスと取っていいの?」
確認のように。
小さく苦笑いをされた気がしたので、いささかムキになって頬にキスをしてみた。とたんに慌てるギャップが激しくて、笑いをこらえきれずにドアへ向かう。教室の外で遠くから、微かに誰かの話し声が聞こえてくる。合唱部がここに来るのだろう。そろそろ、今日のところは帰らなければ。
くるりと振り返る。未だに顔を赤くしているのにまた笑って、意地悪そうに言った。
「一緒に帰ろうよ」
また距離が近づく。三メートル、一メートル、十五センチ。隣に並んで、教室を出る。がやがやと楽しそうな合唱部の人たちとすれ違う。隣を見れば、明らかにほっとした顔。
だから、また、言ってやった。
「ね、手繋いで帰ろ」
微かに震えた体にお構いなく、手を取った。
「まだ学校だよ」
「じゃあ外に出たらいいんだね」
「……」
商談成立。
校門を出ると、手を繋いできてくれたので、嬉しくなって耳元で囁いた。
昨日、あの教室で言ったのと同じ言葉。
「好きだよ、恵」
その耳が赤くなったのは、きっとイエスの証。
幕
−−−−−−
えーと。
相手の名前はどちらでもとれるように。
別に私がそういう趣味だからではないです。
ちょっとした、実験作。