「そんな朝」


 どこかで聞いた歌を頭の中でなぞりながらカーテンを開けた。火曜の朝、六時前。
 窓を開ければ十度を少し超えたくらいの少しだけ肌寒い空気が全ての感覚を侵していく。思わず息を吐いてみればうっすらと白んで溶けたそれをぼんやりと眺める。外は霧がかった景色が何もかも曖昧なままゆっくりと流れていた。ミルク色にかすかに紫が混じった空気にどことなく気だるいような、凛としているような、不思議な気分を覚えた。


 寝つけない夜だった。頭は既に徹夜明けの朦朧気分が現れ始めているのに、やけに胸の動悸が耳に障った。ため息ひとつで諦めを固定して、仕方なく飲み残しの冷めた紅茶を啜る。時計をちらり見れば、四時過ぎ。
 何をしようか。特にしなければならないことはない。そう思いつつ、何とはなしに部屋の中をぐるり見渡す。見慣れた部屋。当たり前のように、当たり前で覆われている。そりゃそうだと思わず自分でツッコミを入れたところで、隅っこに蹲る段ボールを思い出した。別名ジャンクボックス。過去や思い出やらを無造作に突っ込んでは蓋をして封をして腫れ物扱いをしていた、なんてことはなく、ただ単に捨てられないものを詰め込んではほったらかしにしていただけの代物である。
 ちょっと近寄ってみる。既に透明な存在になりつつある箱の上には埃が意外にたまっている。ティッシュで拭いてやれば、舞い上がったそれに閉口。それでもある程度きれいにしてやって、箱を開ける。
 しなびた臭いが鼻をつく。記憶が散乱していた。ひとつひとつ取り上げては思い出をかき集める。友人からの年賀状。昔使った書類。もはや何に使うか分からないケーブル。聴かなくなったオルゴール。乾電池。バンダナ。お土産のキーホルダー。
 角がひしゃげたタバコの箱。
 それにだけ違和感を覚えた。記憶がうまくつながらない。タバコを吸えないわけではないし吸わないわけでもないが、自分で買うほどではない。そもそもが肺まで吸い込まない似非スモーカーなので、たまにご相伴にあずかるくらいだ。それなのに、どうしてこんなものがあるのだろう。
 手に取ってみる。あまり馴染みのない銘柄。
 思い出した。


 結論から言えば、昔それとなくそんな仲になりそうになった人間がくれた、と言うか部屋に置いていったものだった。
 まるで回路が繋がったかのように、それにまつわるエトセトラが頭の中をそれこそ走馬燈のように巡る。
 手のひら。眼鏡。風邪。近づいた顔と顔。迷い。ビニール傘。食堂。耳たぶのそばのほくろ。定規一つ分の身長差。『似てるのかもね』一緒に飲んだ夜。ひらひらと振った手。貸しっぱなしの本。
 回想は幻想のようにソフトフォーカスで瞬時に現実に着地して消えた。余韻はちりちりと瞳の奥にくすぶって、どうにもやりきれない。どうしたもんだか。
 何とか紛らわそうとしてあれからもう、と指折り数えてみれば半年も経っていた。最後に別れた時でこの記憶は時を止めたままだったから、そんなに経ったのかと思わないでもない。それなりにいい思い出ではあったから。だけどそれはきっとフィルターがかかっているからだ。今でも嫌いとは言わないし好きでないとも言わないが、遠く離れてしまった、それも既に終わりを見つけてしまったものを、今となっては何を言ってもどうしようもないし、始まりすら始まらない。
 たかが百キロ。されど百キロ。
 それは、物理的?精神的?
 どっちでもいい。多分一緒だから。


 ベランダの隅のサンダルをつっかけて外に出る。
 片手にはひしゃげたタバコの箱を。左ポケットに、ライターを。
 軽く羽織ったカーディガンのすき間に朝の空気がもぐり込む。それが何故だか心地よくて、そのまま柵にもたれかかる。空は雲が均一に霧と同じ色を成していて青さを見つけられない。それで良かった。
 タバコを一本取り出す。奇跡的に保存状態は良かったらしい。それでもぱらぱら落ちてくる葉を、軽くねじってやることでまとめる。匂いをかいでみる。ただただ湿っぽかった。
 口にくわえてみる。微かに埃っぽくて思わず捨てそうになった。フィルターを湿らさないように、そっと息を吸い込む。子どもの頃に食べた雪の味がした。
 ライターを取り出して、少しだけ息を吸いながら火をつける。含まれていたであろう香りはとうに飛んでしまって、副流煙の味がした。
 久しぶりの感覚に咳き込みそうになりながら、息を吐き出す。どうしてこんな思いをしてまでこんなことをしているのだろう。徹夜明けの頭はこれだからよく分からない。感傷に浸りたいのだろうか。何となくそばにはいられないのだとお互いに感じ合って狭めた距離を戻して、本当にそばにいられなくなって軽口を叩きつつ手を振ったあの日、自分は何を思っていたのだろうか。ちょっと思い出せない。


 『またそのうち遊びに行こうよ』
 不意に最後の言葉がよみがえる。
 そういうことだったかと声には出さずに呟く。今になってひっくり返して蒸し返したのは、閉じ込めていた何かがずっと、外に出たがっていたからなのかもしれない。
 ゆっくりタバコ越しに朝の空気を吸い込んで、霧の中へと吐き出す。幾度か繰り返すうちに、少しずつ濃さを増していく。刻まれた葉に人知れずすり込まれたノスタルジー。
 これを吸い終わったら、連絡してみようか。
 気まぐれくらい、許してくれるはずだ。
 これだから、徹夜するとロクなことがない。自分で言って苦笑いをして、もうすっかり短くなったタバコを地面にこすりつけた。
 最後の煙が朝もやの中にゆっくりと馴染んでいって、あっけなく見えなくなった。それを見送った先の空に、うっすらと青さが顔を覗かせていた。




 今日もいい天気になりそうだ。


   了  



−−−−−−
あんまりにもネタがなかったもので
ベランダにタバコを吸いに行ったときの空の色から。
ちなみに本文中にある通り、肺まで吸えません。