「そんな夜更け」


「おまえは誰だ」
「なにやってんの」
 不意に背後から声がして、私はびくりと肩をすくめた。
 ぎこちなく振り返れば、薄手のシャツを纏った拓海が髪をタオルでがしがしと拭きながらこちらに歩いてきた。ああ、それは髪に悪いよ、と心の中で嘆いたのはここだけの話だ。
「で、なにやってんの」
 ソファーの背もたれに体を預けて、拓海の顔がすぐ右隣に迫った。水気がまだ残る髪の毛からはシャンプーの匂いがして、不意に鼓動が早まるのがわかった。
「鏡の自分に向かって『おまえは誰だ』って毎日言い続けると、自分が自分だと認識できなくなるんだって」
 ゲシュタルト崩壊って言うんだってさ、手鏡をゆらゆらさせてそう続けると途端に真顔になるのがおかしくて、つい吹き出してしまった。そこは笑うところじゃないだろ、なにやってんだよと無言の抗議が返ってきたので、少し息を整えて「ごめん」と手を合わせた。
「本当になにやってんだよ…」
 お風呂上がりであることも手伝ってか、ふにゃりと脱力した拓海が顔を埋めてくる。湿った髪の何本かが首筋をなぞりあげてくすぐったい。それなのに触れる吐息は熱くて、当たり前のように私の体温も上がっていく。さり気なく回された腕はとてもやわらかくて、誤魔化すようにふにふに突っつき回したらもう片方の手が私の髪をかき回した。あんまり強くてぶちぶちと何本かが切れる音がして痛いよーとその手を払うと、やっとまともに顔を合わせることができた。
「どんな気分になるか試してみただけだよ。いちどだけ」
 もう呆れるにも飽きたようで、拓海は少しだけ笑って、「で、どんな気分だった?」と聞いてきた。
「別に、いつもと変わらなかったよ」
 そう言うと背もたれ越しに拓海を抱き寄せて、さっきそうされたように拓海の体に顔を埋めた。お風呂上がりのふわふわした肌はとくとくと脈打って、だから丸みを帯びたそのラインに沿ってキスをした。少しだけ位置を変えて、もう二、三度。今日の私はなんて大胆なんだろうか。きっと拓海のまとうその空気に、くらくらきてしまったに違いない。案の定予想外だっただろう行動に驚いた拓海はあわてて私を引きはがした。のぞき込んだ顔は赤い。
「…やっぱりおかしくなったんじゃない?」
「そうかな?」
 唇に手を当ててわざとらしく首を傾げる。あまり深追いをすると反撃が恐いから、このあたりで。そうすれば肩をすくめた拓海が、ため息一つで手を打ってふわりと笑う。
「コンビニでも行く?」
「さんせーい」
 小学生よろしく手を挙げて、そうして二人で笑いあう。プリンがいいなあ、などと言いながら着替えを始めた拓海を横目で捉えながら、私はまだ手の中にある鏡をちらりとのぞき込んだ。



 いつだって。あなたのそばにいる私は、私の知らない私。



 だからその背中にそっと好きだよ、と呟けば、知ってるよ、と振り返った彼女は綺麗な顔で笑った。

〈了〉




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短文。
本当はもう少し続けたかったのですが、
話が広がりませんでした。