「そんな夜」


「はぁ」
 ベッドに潜り込むとすぐにため息が漏れた。
 何度目のため息だろう。
 お昼を回る前に、数えるのはやめてしまった。
 最近何だか気分が鬱だ。何もする気が起きないから食欲もわかず、結果、トイレに行こうとするだけで足元が頼りなげになる。
 約束やら何やらがないと部屋から出る気も起きないから閉じこもることになる。
 おまけにこの雨だ。季節はカレンダーの上ではとうに夏になったというのにいい加減梅雨も明けない。
 これでは、外に出たりする気も起きなくなるのも当然だ。除湿器もない部屋は多分に陰気で、毎日服に袖を通すたびに違和感を感じる。
 しかもどうやら偏頭痛持ちの自分は低気圧が通過するたびに最悪な状況に陥る。昔この時期に少し早い夏風邪を引いた時はいっそのこと早く楽にしてくれと思いたくなるほどすさまじいものがあった。
 だけどそれだけじゃない、この憂鬱の原因は。
「はぁ」
 ため息だけが部屋の空間を支配する。
 仰向けのまま手探りで、暗闇の中枕元から携帯を掴みあげる。
 折り畳みのそれを開いた途端光がこぼれて、予想以上の眩しさに思わず眉を思い切りひそめる。
 パソコンのブラインドタッチよろしくボタンを操作し、お目当ての画面に切り替える。
「……はぁ」
 やはりため息が出る。
 そこに映し出されたのは、今とはかけ離れた笑顔の自分と、もう一人。
「…こうちゃん」
 そっと名前を呟いてみる。それを聞く人間はいない。声という媒介を通すというだけで頭の中で考えるのと一緒だ。それがますます自分を卑屈で惨めな気分にさせた。
 彼とは最近付き合いだした。たまたま席が近くなったので、どちらかというと同性よりは異性と話が合う自分が彼に話しかけ、それをきっかけに距離が近づいた感じだ。
 だけど好きだ、と言ってきたのは彼の方だった。正直、驚いた。
 もちろん自分にもそういう気持ちがなかった訳じゃない。だから、その言葉を受け入れたのだけど、だけどまさか彼が自分からそんな事を言うなんて思えなかったから。
 彼はなんというか、掴み所がなくて、だけどだからこそそんなところが好きで。
 だけど。
「はぁ…」
 高校が夏休みに入ったのはついこの間のことだ。一年生と言うことで出された課題も少なかったし、だから自分はこれからの展開を思って胸躍らせていたのだ。
 なのに。
『夏休み入ったらすぐ、二週間ぐらい旅行に行くから』
 いくら家族で前々から決めていたと言われても、それは自分にしてみれば裏切り以外の何者でもなかった。
 テレビや雑誌で自分よりももっと切ない恋をしてる人が山ほどいるのは知っていた。むしろ自分は幸せな部類に入るんじゃないか、と言うことも何となく分かっていた。
 だけど心がついていかなかった。無駄な知識だけは溢れるマスコミから手に入れられても、結局自分は一人の、どうしようもない子どもなままの人間だった。
「…ずるいよぉ」
 そう言ってみた所でこれが単なるわがままに満ちた思い上がりであることは自分でも明白だった。
 だからこそ、余計に気分は陰鬱だった。
「はぁ」
 ぱちんと携帯を閉じた。もううんざりだった。こんな自分が。
 そのままだらしなく腕を枕元に落とし、携帯から手を離す。そしてその腕で両眼を覆う。
「ばかみたい」
 泣きそうだった。むしろ泣いてしまえた方がずっとずっと楽だった。しかしできなかった。
 そんな事は、ただの自己満足だと知っていたから。
 もう嫌だ。このまま寝てしまおう。
 自分で自分のことを罵声する声がどこか遠くで聞こえた。



 枕元で携帯がけたたましくメロディーを奏でる。
 唐突に始まるそれは、今の自分には不快以外の何者でもない。
 誰だろう、こんな時間に。このメロディーは、誰のものだったっけ…目覚めたばかりの寝ぼけた頭では、すぐには情報を把握しきれない。
 適当に仰向けのまま枕元を手探りする。掴んだ携帯をぱっと開き、ぞんざいに耳元に押し当てる。


『きいこ』


 文字通り、飛び起きた。
 眠気も何もかも吹っ飛んだ。


「な…何?!こうちゃん」
 疲れていたのか、口を開けて寝ていたらしい。久しぶりに出した声がかすれている。
『きいこ』
 喉が痛い。むせそうだ。
『きいこ』
「…どうしたの?」
 どうしたんだろう、こんな夜中に。こんなにも唐突に。
 どきどきどき。心臓がいつもの三倍跳ね上がる。
 しばらく沈黙が続く。
「…こうちゃん?」
 喉が痛い。ひりひりする。
『ん、ただ…名前を呼びたかっただけ』


 はぁ。
 ため息が、漏れた。
 …なんなんだよ。
「……そんなの、ふいうち、だよ」
 どうしたんだろう、うまく息が吸えない。
「…そんなの、」
 ちりちりと喉が焼けるようだ。
 どうしたんだろう、うまく息が出せない。
「ふいうち、だよ」
 ふふ。
『……泣いてるのか?笑うかどっちかにしろよ』
「…どっちでもいいじゃない」
 本当はぽろぽろぽろぽろ呆れるくらいに涙がこぼれていたけれど。
 心の底からこみ上げてくる笑をこらえることができないでいたけれど。
「なんなのさ、もう」
『ん……何なんだろう』
 悔しまぎれにそう言ったら、いつものようにはぐらかされてちょっぴり苦笑した。





 掴み所がなくて、だからこそ彼のことをどこまでも追いかけていこうと決めた、ある梅雨の日の午前三時。

 

―終―



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「そんな夕暮れ」とは違う人。